"何故人を殺してはいけないのかを語れる人"との会話はとても有意義という理論について

この理論は、僕のTwitterの友達が呟いていたものです。その人は恐らくまだ20代前半くらいなのですが、一人旅をしていたり、飛田新地に伝があったり、1ヶ月の間自治体による配給の食事だけで過ごしたり、ガソリン零しながらトラック走らせてニュースになったりと、結構間違った方向にすごいエピソードを持ってる方です。しかし、話してみると年下の僕にもとても謙虚で優しくて、また本当は色々考えていて、頭が良さそうな印象もある不思議な方です。

まぁ、このタイトルはそんなパンドラの箱の擬人化のような人が呟いていたことなんですが、このたった数十文字に何故か、僕はとても惹き付けられました。

もちろん。人を殺してもいい世界なんて言語道断です。ですが、どうして?何故人を殺してはいけないのか?と問われると、ほとんどの人は恐らく、悲しむ人がいるからとか、そういう法があるからとか、そんなの当たり前で聞く方がどうかしてる。精神病院紹介しようか?みたいな反応で、本当に理論だてて説明出来る人は道行く人に何人いるでしょうか。僕は時々、"当たり前だ"と言って、それ以上物事を深く考えることの出来ない思考回路へと、世界の人間の大半は洗脳されているんじゃないかと、SFよろしく思う時がありますが、まさにこの時もそうでした。

まぁしかし、僕はその難しそうな内容の呟きに自分なりの倫理観を持ってこう返信しました。

自分が殺されたくないからだと思います。と、

まぁ、簡単な話ですよね。人を殺してもいいのに自分が殺されるのは嫌というのは可笑しいです。やられたらやり返すを否定しています。ですが、この理論でいけば、殺される覚悟、死ぬ覚悟では無く殺される覚悟がある人間なら、或いは人を殺めてもいいということになってしまいます。

まぁ、この場合は社会の悪をなしたことによる制裁、刑罰を受ける覚悟ということになりますね。

うん。自分で言っといてなんですが、かなり殺人に対して肯定的な意見ですよね。そんな気はないんですが…

ただ、これくらいのえせ哲学のような質問に対してすら、こんな穴だらけな回答しかできないのは、思考の放棄と言いますか、生きることへの冒涜といいますか、何と言いますか、自分にそれくらいの倫理観しかないからだと思います。さらに言うのであれば、一重に人として大切なことを色々とスキップしてきた代償だと思います。

と、そんなこんなで閑話休題

さて、自分の適当な倫理観のせいでこんな遠回りな話をしてしまいましたが、結局はこの"何故人を殺してはいけないかを語れる人"ってのは、さっきも言った人として大切なことをスキップしていない、もしくはスキップした物を取り返した人間の隠喩なんだと思います。そういう人間こそ、倫理観だけでなくそれこそ生活の知恵だったり年の功だったりで、見えている世界の水準が高いから、話してて有意義ということだと思います。まぁ、僕個人としてはエセ哲学のような質問にするにしても、どうして人間は生きなければならないのか。くらいにすれば良かったものの、ここは本人の性格が裏目に出てしまったらしく、人を殺めることに対しての質問になっていたのは、なかなかどうして不謹慎さは否めません。しかし、これ程過激なことを呟いても、その異常性にすら興味を示す人が多くないのは、本当に洗脳が進んでいるんではないかと、僕の中ではますます疑わしくなっていくばかりです。